【#無名人の政治的発言】検察なんちゃら法案と芸能人・著名人の政治的発言

「検察なんちゃら法案」と「芸能人や芸術家の政治的発言」に関して盛り上がっておりますが、最近書くネタもないし恥ずかしげもなく乗ってみようかと思います…。

 
 

まず、ボクの今回の検察官定年延長に関しての考えと姿勢。

1.定年延長法自体は特に問題がない

2.「総理大臣の判断で延期」に関しても、そもそも検察は法務省の管轄であり、任命権は総理大臣なんだから今更この付帯条項が付いたところでそう大きな変化ではなく、野党やマスコミ、一部著名人が騒ぐような「検察の独立性がそがれる」「安部自民の独裁だ」なんて話ではない。

3.黒川さんの例外的な人事に関してはもちろん”よろしくはない”部分はあるだろうし、これに関わらず安倍政権の”驕り”があるのも事実。ただし、圧倒的多数の議席を与え、野党があの体たらくなのを見ればそりゃ気も緩むって話。安部政権の驕りを作った原因・責任は投票した国民と情けない野党にあるという前提を棚にあげるな。

4.そもそも現状の日本で、”検察の独立”が成立しておらず、しかも検察は”強すぎる”状態

 

 
4に関しては、このブログで時々名前を出す、私が敬愛している論客「都村長生」さんの検察に関するテキストを文末に載せておきますのでご一読ください(長いです…)

このテキスト自体は裁判員制度に対しての意見を述べたものなので、直接関係のない部分もありますが、検察の現状と問題点をかなり明確に示していると思いますので引用しておきます。

とりあえず下記3点は今回の問題を考える際の「基本」として押さえておく必要はあると思います。


・今の日本の司法の現状を見ると、この警察、検察、裁判所の三機能がきちんと独立して働いているとはとても思えない。すなわち、検察の権力が巨大化して、警察と裁判所の権限を取り込んでしまっているのが特徴

・組織的には検察は独任官庁とはいえ法務省管轄の行政の一部であり、検察官は役人そのものです。検察の主要人事は総理大臣や法務大臣といった行政のトップが任命するわけですし、検察の予算も行政の一機能としての国家予算として計上されるわけですから、予算と人事を握られればビジネスではとても独立している組織とは言えません。また、法務省法務局の役人のほぼ半分は人事交流で検察官で占められていますから、検察は法務省とベッタリだと言っても過言ではありません

・大きな問題は「検察と裁判所の関係」です。今、日本では検察が起訴した事件の99.9%以上が「有罪」になっています(こんな国は世界にない)。これを誰も異常だと思わないのが、私には理解できません。
 司法の常識から言えば、検察は、判断が微妙であるグレーな案件も含めて「有罪の可能性があれば容疑者を起訴し、裁判で有罪か無罪かを確定してもらう」というのが本来の役割のはずです。そうすると、有罪率は統計的には50%くらいになるはずでしょう? それが「検察が起訴すれば99.9%以上有罪になる」というのは、要するに「実質的に検察が有罪か無罪かを決めている」ことに他ならない。つまり、検察が裁判所の主権限を侵しているわけです。

 

 
各自意見の相違はあるでしょうが、今回の騒動以前から検察は「行政機関」であり、それなりの問題ははらんでいる、というのは事実といっていいと思います。

 
これが前提。
 

 

その中で今回の法案、多少強引な部分や若干の身内贔屓、”空気を読まない感”(よーするにこれが主原因なんだがw)はあるにせよ、内容自体は単に事務的な調整レベルだと感じます。
 

 
それに対し…

 

「凛と独立した正義の組織である検察」を骨抜きにする仕組みを、「悪の権化・アベ」がコロナのどさくさに強引採決しようとしている

 

とマスコミと野党がストーリー立てSNSでキャンペーンを展開、それに仕事が無く暇でイライラしている芸能人・著名人が乗っかった

 

 
というのが現状でのこの件に関する僕の印象です。

 

 
ポイントは野党議員やマスコミは腐っても「政治のプロ」であり、おそらくこの法案が”大したことじゃない”ってことは理解してやってるということ。

モリカケや桜と一緒で、コトの重要度・大小ではなく「明らかに相手にミスポイントがあり」「自分にブーメランしなさそうな」「攻めやすそうなところ」を狙って、”さも大ごと”のように煽って叩く、といういつもの手法なわけです。

 

 
んで芸能人・著名人の皆様…

 

 
「悪の使者・アベが正義の検察を脅かす」をガチで信じて発言してる人が多数いる気がする…

そのまんま東やラサール石井のような“政治ゴロタレント”は、野党マスコミの意図を汲んでるような気もしますが、普段そういうキャラじゃない人たちはどうなんだろう?と疑問がわきますね…。

 

 
上記のコトから、あのハッシュタグ付けて疑問も無く乗ってる人達…”ちょっとイタいなぁ”というのが僕のトータルな印象です。

 

 

 
そして「芸能人・著名人の発信」、それ自体に関して。

これは、”聞く方の問題じゃね”と。

 

受け手が

「歌」「演技」「運動能力」など…、その人が神がかった一芸を持っていようが、その能力と政治など他分野での発言の正当性・重みは全く別問題

ということを理解してりゃそれで済むコトでしょ?。
 

 

歌手は「歌のプロ」であっても「政治のプロ」ではないというシンプルなハナシです。

極論を言えば「プロ歌手の政治的発言」の持つ価値・中身は、プロサラリーマンたる新橋の酔っぱらいのオッチャンの居酒屋でのそれと何ら変わらないわけですよ。

 
もっとも芸能人・著名人は「常人よりはるかに苦労・努力をしてきている」「色んな世界を見ている」「大きな金の流れを知っている」「実際に政治家などとの付き合いがある」など、付加価値を持たせる要素を持っている場合も多く、そこでその辺のオッサンよりは幾らかの上積みはあるとは思いますが…それも一連の発言を見る限りそう大きなものではないように感じますが…苦笑。
 

 
とにかく著名人、芸能人は心ゆくまでテレビやSNSで持論を展開すれば良く、問題は受け手というのは基本線だと思います。
 

 

 
でもまぁ、問題が無いかと言えばそうでもない。

 
言うまでも無い話ですが…彼らの発言は自身が望まずとも”それ自体が大きな影響力を持ってしまうことがある”と。

 

 
どんなに稚拙な内容の発言でも、『ただの健康グッズ』を『何でも治す魔法の水製造機』と信じさせる力を持ったりする

 

 
わけですよ(あー書いてて切ないわぁ…苦笑)
 

 

彼らはその自覚・覚悟を持って発言しているかどうか?、論点はそこに尽きると思います。

エーちゃんやB’zなど、ガチで影響力がありそうな人は安易に発言していないのは、弱気とか政治に興味が無いとかそういうことではなく、自身の影響力を分かっていて、それがミスリードに繋がることも理解しているからだと思います。

 

 

もっとも、現在大声出して言っている人はほとんどが世の大勢には影響がない人という印象も失礼ながらありますが…苦笑。
 
きゃりーぱみゅぱみゅが大きく取り上げられたというのは、発言の内容ではなくその影響力と意外性、平たくいえば”引き”が他よりあったという話でしょうしね。

 

話がまとまらなくなってきたので強引にぶったぎり…汗

 

 
結論としては

 

・芸能人・著名人だろうが、明らかな差別や弱者攻撃じゃなきゃ好きなこと言えばいい、ただ自分の持つ教祖的パワーのリスクだけは気を付けてね

・受け手は例えファンだろうが対象の専門以外の発言に関しては、しっかりと疑って自分で調べ、考えて判断しようね

 
というシンプルなことだと思います。

 




 

―――以下、都村長生氏の論からの引用―――

「日本の司法制度の歪みとは何か?」について、考えてみることにしましょう。ただし、私は司法に関してはプロではありませんから、いつものようにビジネスのプロの常識から見た司法の組織システム改革案としてお話しさせていただくことをお断りしておきます。

検察が巨大化して「警察」と「裁判所」を取り込んでしまった

 今の日本の司法制度を刑事事件を例にとって簡単にまとめると、
(1)警察が事件を捜査し、捜査に基づいて容疑者を逮捕し、検察に送る(送検)。
(2)検察が証拠を集め、有罪の可能性があれば証拠とともに容疑者を裁判所に送る(起訴)。
(3)裁判所が検察官と弁護人の主張を検証しながら容疑者を裁き、有罪か無罪かを「判定」し、また有罪の場合はその「量刑の決定」を行う(裁判)。
というビジネスシステムで、警察と検察と裁判所が役割を分担して事件を裁くという仕組みになっています。組織上も警察は内閣府・国家公安委員会の中の警察庁に属し、検察は法務省の検察庁に属し、裁判所は三権分立の建前ですから行政からも離れて、それぞれ独立して存在しているのはご存じの通りです。

 ところが、今の日本の司法の現状を見ると、この警察、検察、裁判所の三機能がきちんと独立して働いているとはとても思えない。すなわち、検察の権力が巨大化して、警察と裁判所の権限を取り込んでしまっているのが特徴です。ここに、日本の司法の「歪み」の根源があります。

 まず、検察は特捜部をはじめとして、すでに警察の役割領域である「捜査」や「逮捕」までを独力で行っているのは周知の事実です。また、送検された後も検察は警察に対して追加捜査等を命ずる権限もあり、事実上の警察の上部組織として機能していると言ってもよいでしょう。事実、警察の現場にとっては送検しても検察が起訴してくれなければ自分たちの評価が落ちるので、検察に対して、ある種へりくだっているところがあり、一方、検察は警察を「見下している」というメンタリティがあることは否めません。

 つまり、検察の方が警察に比べ強い立場にあり、すでに警察の機能の一部を取り込んでいるため、お互いが別々の権限を持って独立しているとは言えない現状なのです。ただし、この程度の上下関係は組織システム上そう致命的な問題とは成り得ない。なぜなら、警察の主業務の捜査、逮捕権はしっかりと確保されているからです。まあ現場の刑事から「検察がねえ…」というグチが出るくらいのものでしょう。

 もっと大きな問題は「検察と裁判所の関係」です。今、日本では検察が起訴した事件の99.9%以上が「有罪」になっています(こんな国は世界にない)。これを誰も異常だと思わないのが、私には理解できません。

 司法の常識から言えば、検察は、判断が微妙であるグレーな案件も含めて「有罪の可能性があれば容疑者を起訴し、裁判で有罪か無罪かを確定してもらう」というのが本来の役割のはずです。そうすると、有罪率は統計的には50%くらいになるはずでしょう? それが「検察が起訴すれば99.9%以上有罪になる」というのは、要するに「実質的に検察が有罪か無罪かを決めている」ことに他ならない。つまり、検察が裁判所の主権限を侵しているわけです。

 では、裁判所は何をやっているのか? 結果として、裁判所は「有罪か無罪かを決める」という本来の仕事を実質的に検察に奪われ、極論すれば「量刑を決定する」だけの仕事しかやっていない、必然的にそうなりますよね。

 次に、なぜ99.9%以上も有罪になるのか? その一番の理由は、検察官の人事評価制度が「起訴数と有罪率」、つまり、なるべくたくさん起訴し、その起訴した案件をなるべくたくさん有罪にした者が評価される、という仕組みになっているからだ、というのが通説です。

 では、この人事評価制度下では何が起こるのか? を考えてみましょうか。まず、検察官は、起訴した案件が裁判で無罪になると大変な「失点」がつくことになる。何しろ0.1%の例外に属してしまうわけですから。そのため、「少しでも無罪の可能性があると起訴しない」というメンタリティが働き、有罪なのに不起訴(無罪)にしてしまうことになる。

 また、数も稼がねばならないため、効率的に仕事をこなすことが求められる。すなわち、手っ取り早く有罪に持って行くために、時間のかかる面倒な証拠集めより「被疑者にとにかく自白させる」という自白中心主義がはびこってくるわけです。もちろん、それが無罪の者を有罪にしてしまう冤罪を生む一番の原因であることは言うまでもありません。つまり、ビジネスの品質管理で言う第一種の過誤(あわて者の誤り)と第二種の過誤(ぼんやり者の誤り)が同時に起こりやすい仕組みになっているのです。

 加えて、後述する裁判所との人事交流により、裁判官との間で確信犯的に「起訴イコール有罪」という阿吽の呼吸を作り上げる、という小賢しい官僚的な発想も生まれてくることになる。

 また、検察独自の「検察官僚主義」(私の造語ですが)もそのメンタリティに拍車をかけています。皆さんは、検察は行政組織に属していると思いますか? あるいは司法組織として行政から独立していると思いますか? 法曹界の人は全員必ず「検察はきちんと制度上行政とは独立した司法組織になっている」と言い張りますが、ビジネスの常識から見ればこれは明らかにおかしい。

 すなわち、組織的には検察は独任官庁とはいえ法務省管轄の行政の一部であり、検察官は役人そのものです。検察の主要人事は総理大臣や法務大臣といった行政のトップが任命するわけですし、検察の予算も行政の一機能としての国家予算として計上されるわけですから、予算と人事を握られればビジネスではとても独立している組織とは言えません。また、法務省法務局の役人のほぼ半分は人事交流で検察官で占められていますから、検察は法務省とベッタリだと言っても過言ではありません。

 ところが、検察官は「自分たちは行政のコントロールは受けない」と信じ込んでいる。しかし、メンタリティは官僚主義そのもの、組織全体に役人根性が蔓延しているのです。極論すれば、検察官は出世するためには送検された案件の真実なんかどうでもよい、とにかく起訴に持って行って全部有罪にしてしまえば自分の成績が上がり、それが検察という組織の権力増強に直結する、個人個人の上昇志向が組織の存在理由となってしまっているのです。私はこれを「検察官僚主義」と呼んでいますが、他の官僚組織と違って「自分たちは独立している」と信じているためコントロールが効かず、暴走しがちで実に始末が悪いのです。

 ちなみに、このように司法でもない行政でもない鵺(ぬえ)のような組織を作ると、必ず双方のいいとこ取りをして暴走してしまうのが、会社の組織設計における私の経験則です。

 では、そんな検察が巨大権力化したために、裁判所はどうなってしまったのか?

裁判官がオタク化している

 ビジネスで言えば、一つの部署が大きな権力を持つと他の関係部署が縮こまって内向き化、オタク化してしまって、組織全体が正常に機能しなくなる…これが会社で常に観測される現象です。同じことが今の裁判所でも起こっていると思えばいいでしょう。

 例えば、検察から裁判所に起訴案件が上がってくると、裁判所はまず調書等を含む起訴状が正しいかどうかの検討から着手するはずですね。先述のように強制的な自白調書であるかもしれないわけですから。

 ところが、現状はそうではありません。権力の巨大化した検察が実質的に「有罪」と決めて上げてきたわけですから、逆らうわけにはいかない。つまり、裁判所は最初から「調書は正しいものだ」と鵜呑みにするしかなくなります。つまり、“判定”はもう終わっているのです。従って、残る仕事は必然的に“量刑を決定すること”だけになってしまいます。

 その結果、裁判官は検察の権力の前に縮こまってしまって、本来の役割であるべき「有罪か無罪かの判定」ではなく、残されたテリトリーである「量刑の決定」だけを細かくやり始めるしかないわけです。こういう組織は必ず内向き化、オタク化します。例えば、「懲役10年か、12年か」「執行猶予を1年にすべきか、1年半にすべきか」等といった些細な部分を「とにかく正しい判断を出さないといけない」と言って1年も2年もかけて検討する。

 つまり、他にやることがないから、自分の存在意義を示すために長い時間をかけて「重箱の隅をつつく」ことになるのです。また、それを正当化するために、外界との情報を遮断し内にこもろうとする…。「裁判官は世論の影響を受けてはいけないので新聞も読んではいけない」…こんな笑い話が生まれたことからも、内向き化、オタク化という意味がおわかりいただけると思います。

 ちなみに、ビジネスでも仕事がなくなった組織というのは、必ずそういう方向に動きます。一つ事例を挙げましょう。

 私は最初の勤め先の石油会社にエンジニアとして採用されたのですが、石油会社のエンジニアというのは、石油の消費が伸びて工場がどんどん拡張している時には、プラント増設の設計等でものすごく忙しくなります。仕事の規模も、例えば数百億円のプラントを1人のエンジニアがすべて責任を負って設計し、稟議書を書き、それが3~4人の上司のハンコ(決裁)だけで通ってどんどん事業が進んでいくのです。

 しかし、一旦拡張が止まると、途端にエンジニアの仕事はなくなります。すると、エンジニアたちは「このパイプは付け替えた方がいいのではないか」「この部分はステンレスの強度を増やして補強した方が…」等といった小さい仕事を、時間を掛けて延々とやり始めるのです。

 実は私が入社した時、いきなりオイルショックがやってきてプラント増設はストップ、エンジニアの仕事がほとんどなくなりました。すると、それまで数百億円のプラントを担当していたエンジニアたちが、1件5000万円くらいの配管工事等の小さな案件の検討をチマチマやり始めるわけです。

 そして、稟議書を上げると、今度は上司が「これは4800万円にできる」とチェックを入れる。また次の上司が「いや、4750万円でできる」、また次の上司が…と、それこそ10人以上の上司のチェックが入る。つまり、みんな仕事がないため、自分でいちいち計算をして数字を出し、仕事を創り出そうとするのです。従って、決定までに時間がかかること限りなし、今までの5倍くらいかかりましたよ。

 おそらく今、裁判所で行われていることは、そういうことだと思います。だから、日本の裁判は異常に長くかかるのです。また、そんなことを続けていると、裁判官のメンタリティも歪んでくることは想像に難くありません。

 私には弁護士の友人が何人もいるのですが、彼らの話を聞くと、弁護士の間ではクライアントの裁判になると「誰が裁判官になるのか」が一番気になると言います。つまり、上記の内向き、オタクの裁判官に当たると、世間の常識や論理や智恵が通じないので弁護のしようがない、しかも、そういう裁判官が非常に多いから困る、と言うのです。何となく今、日本の裁判がどういう状況かわかりそうな気がしますね。

 もう一つの虐げられた内向きの組織の特徴に、「権力に媚びる動きをする」ことが挙げられます。裁判官の検察庁への出向システム(人事交流)がその典型例でしょう。今、裁判官の検察への出向がきちんと人事ローテーションに組み込まれて、年間何人か必ず検察へ出ています。もちろん、検察としても有罪率を上げるために裁判所とのコンビネーションプレイはウェルカムでしょう。どちらかとはなく、阿吽の呼吸でこの取り決めが行われたことは想像に難くないと思います。これも歪みの一例と言えるでしょう。

 さて、ここまで述べてきた日本の司法制度の問題点をまとめると、
(1)日本の司法の現状は今、検察が巨大化し、役人のメンタリティで警察と裁判所を取り込んでしまった。
(2)そのため、警察、検察、裁判所の仕事の分担がおかしくなり、司法のあるべき姿が歪んでしまっている。
(3)その結果、末端でおかしな現象がどんどん起こり始めている。
、こんなところでしょうか。ということは、ここを直せば、冤罪の問題や検察審査会の矛盾、裁判員制度の問題点等、司法に関する多くの問題はほとんど解決するはずなのです。

 では、どうすればいいのか? ここでは、中でも特に大きな問題の原因となっている「検察と裁判所の関係」について、問題解決の方策を考えてみましょう。

検察と裁判所をあるべき姿に戻す

 検察と裁判所の関係をおかしくしている一番の原因は、「実質的に検察が有罪、無罪を決めている」ことにあります。これが「第1ボタン」です。従って、第1にやるべきことは、検察と裁判所の独立性を回復し、「検察は証拠を集めて起訴をする」「裁判所は検察の起訴を受けて有罪か無罪かを決める」というあるべき姿の役割分担に戻すことです。すると、何が起こるか? ドラスティックに裁判制度が変わりますよ。

 まず、検察はどう変わるのか? 当然、グレーな案件も含め要件を整えて起訴し、有罪、無罪の決定をすべて裁判所に預けることになりますから、点数稼ぎのために安易に不起訴にすることも、また、有罪にするために被疑者に無理な自白強要をしたりすることもなくなることが期待できます。

 ただし、これには我々国民の側にも今までの常識、考え方を変えることが求められます。我々が反省して考え方を改める、これがこの改革の大前提です。それは、「起訴されたからと言っても、裁判で有罪が確定するまではその人は犯人ではない」という、「推定無罪」の原則をきちんと国民が合意することです。

 今は、「推定無罪」とは名ばかりで、起訴されれば「あいつは犯人だ」と決めつけるようなメンタリティが国民の間に蔓延しています。それは、「起訴すれば99.9%以上が有罪」という異常な事実を積み上げてきた検察と、それを検察記者クラブを通じて過剰報道で煽ってきた無節操なマスコミが作り上げた負の遺産というべきでしょう。

 こう考えればわかりやすいと思います。今の日本には、「全く異なる2つの裁判制度が存在している」という奇妙な現実がある。1つは、旧来の「起訴イコール有罪」という裁判、もう1つは検察審査会による強制起訴に代表される「有罪か無罪かわからないので裁判で決着をつけてください」という裁判です。ただ、問題なのは、我々国民のメンタリティがこの両者に区別をつけていないこと、我々はまだすべて「起訴イコール有罪」の感覚を持っていること、にあります。

 その結果、例えば小沢氏は無罪かもしれないのに、検察審査会から強制起訴されただけでほとんど政治生命を絶たれるというひどい仕打ちを受けている。もし無罪になれば、これは明らかに検察審査会とマスコミによる「冤罪」以外の何物でもない。彼は今はあくまで推定無罪なのですよ。

 従って、我々国民がこのメンタリティを直さない限り、「有罪、無罪は裁判所が決める」という検察と裁判所の改革はうまく回っていかないことになります。この負の遺産の払拭には当然、検察とマスコミに乗せられた当事者である我々も悔い改める汗を流さねばならないのです。

 次に、裁判所はどう変わるのか? まず、裁判所は有罪か無罪かの判断をするために調書からきちんと検証することになり、検察の調書をそのまま鵜呑みにするという情けない慣習もなくなる。加えて、裁判官も「有罪か無罪か」という重要な責務を担うことになり、メンタル的にも正常で健康な姿に戻ることが期待できます。

 当然、検察から起訴されて上がってくる案件はかなり増えると思いますが、裁判官を増員する必要などありませんよ。なぜなら、今、裁判所が刑事事件について多くの時間を費やしている「量刑の決定」が大幅にスピードアップされるからです。裁判所が「有罪、無罪の判断」という大きな仕事を取り戻せば、オタクのようにチマチマといつまでも量刑の検討をする、などということはなくなるはずだからです。

 そもそも量刑というものは、私に言わせればほとんど機械的に出てくる類のもののはずです。結局は、莫大な過去の判例というデータベースをもとに回帰分析をかけるようなものですから、どう考えても何年もかかる話ではありません。

 事実、裁判員制度が適用された裁判は、明らかに大幅に判決までのスピードが速くなっているではないですか。裁判員は一般人ですから裁判にそんなに多くの時間を割けない。従って、決められたスケジュールで結審する必要に迫られてスピードが速くなっているわけですが、要するにやろうと思えば速くできるのです。

 ちなみに、アメリカの裁判所は基本的に「有罪か無罪か」を決める場所であり(映画等でもご存じだと思います)、陪審員も「量刑」ではなく「有罪か無罪か」を判断するのが仕事です。そこには「量刑はある程度機械的に決められるものだが、有罪か無罪かは機械的に決めるわけにはいかない。従って、そこに裁判所の存在意義があり、またその判断に民意として陪審員を入れる」という考え方でやっているのです。

 もちろん、それが最適かどうかは別の話ですが、今の日本の「有罪か無罪かはほぼ検察が決めてしまい、機械的に決まるはずの量刑の判断に裁判所が時間を費やす。裁判員制度の裁判員も量刑判断に参加する」というやり方よりもわかりやすく、合理的であり、合目的的であることは言うまでもないでしょう。

~~~~~~~中略~~~~~~~~~~

「日本の司法制度の歪みとは何か?」について、考えてみることにしましょう。ただし、私は司法に関してはプロではありませんから、いつものようにビジネスのプロの常識から見た司法の組織システム改革案としてお話しさせていただくことをお断りしておきます。

検察が巨大化して「警察」と「裁判所」を取り込んでしまった

 今の日本の司法制度を刑事事件を例にとって簡単にまとめると、
(1)警察が事件を捜査し、捜査に基づいて容疑者を逮捕し、検察に送る(送検)。
(2)検察が証拠を集め、有罪の可能性があれば証拠とともに容疑者を裁判所に送る(起訴)。
(3)裁判所が検察官と弁護人の主張を検証しながら容疑者を裁き、有罪か無罪かを「判定」し、また有罪の場合はその「量刑の決定」を行う(裁判)。
というビジネスシステムで、警察と検察と裁判所が役割を分担して事件を裁くという仕組みになっています。組織上も警察は内閣府・国家公安委員会の中の警察庁に属し、検察は法務省の検察庁に属し、裁判所は三権分立の建前ですから行政からも離れて、それぞれ独立して存在しているのはご存じの通りです。

 ところが、今の日本の司法の現状を見ると、この警察、検察、裁判所の三機能がきちんと独立して働いているとはとても思えない。すなわち、検察の権力が巨大化して、警察と裁判所の権限を取り込んでしまっているのが特徴です。ここに、日本の司法の「歪み」の根源があります。

 まず、検察は特捜部をはじめとして、すでに警察の役割領域である「捜査」や「逮捕」までを独力で行っているのは周知の事実です。また、送検された後も検察は警察に対して追加捜査等を命ずる権限もあり、事実上の警察の上部組織として機能していると言ってもよいでしょう。事実、警察の現場にとっては送検しても検察が起訴してくれなければ自分たちの評価が落ちるので、検察に対して、ある種へりくだっているところがあり、一方、検察は警察を「見下している」というメンタリティがあることは否めません。

 つまり、検察の方が警察に比べ強い立場にあり、すでに警察の機能の一部を取り込んでいるため、お互いが別々の権限を持って独立しているとは言えない現状なのです。ただし、この程度の上下関係は組織システム上そう致命的な問題とは成り得ない。なぜなら、警察の主業務の捜査、逮捕権はしっかりと確保されているからです。まあ現場の刑事から「検察がねえ…」というグチが出るくらいのものでしょう。

 もっと大きな問題は「検察と裁判所の関係」です。今、日本では検察が起訴した事件の99.9%以上が「有罪」になっています(こんな国は世界にない)。これを誰も異常だと思わないのが、私には理解できません。

 司法の常識から言えば、検察は、判断が微妙であるグレーな案件も含めて「有罪の可能性があれば容疑者を起訴し、裁判で有罪か無罪かを確定してもらう」というのが本来の役割のはずです。そうすると、有罪率は統計的には50%くらいになるはずでしょう? それが「検察が起訴すれば99.9%以上有罪になる」というのは、要するに「実質的に検察が有罪か無罪かを決めている」ことに他ならない。つまり、検察が裁判所の主権限を侵しているわけです。

 では、裁判所は何をやっているのか? 結果として、裁判所は「有罪か無罪かを決める」という本来の仕事を実質的に検察に奪われ、極論すれば「量刑を決定する」だけの仕事しかやっていない、必然的にそうなりますよね。

 次に、なぜ99.9%以上も有罪になるのか? その一番の理由は、検察官の人事評価制度が「起訴数と有罪率」、つまり、なるべくたくさん起訴し、その起訴した案件をなるべくたくさん有罪にした者が評価される、という仕組みになっているからだ、というのが通説です。

 では、この人事評価制度下では何が起こるのか? を考えてみましょうか。まず、検察官は、起訴した案件が裁判で無罪になると大変な「失点」がつくことになる。何しろ0.1%の例外に属してしまうわけですから。そのため、「少しでも無罪の可能性があると起訴しない」というメンタリティが働き、有罪なのに不起訴(無罪)にしてしまうことになる。

 また、数も稼がねばならないため、効率的に仕事をこなすことが求められる。すなわち、手っ取り早く有罪に持って行くために、時間のかかる面倒な証拠集めより「被疑者にとにかく自白させる」という自白中心主義がはびこってくるわけです。もちろん、それが無罪の者を有罪にしてしまう冤罪を生む一番の原因であることは言うまでもありません。つまり、ビジネスの品質管理で言う第一種の過誤(あわて者の誤り)と第二種の過誤(ぼんやり者の誤り)が同時に起こりやすい仕組みになっているのです。

 加えて、後述する裁判所との人事交流により、裁判官との間で確信犯的に「起訴イコール有罪」という阿吽の呼吸を作り上げる、という小賢しい官僚的な発想も生まれてくることになる。

 また、検察独自の「検察官僚主義」(私の造語ですが)もそのメンタリティに拍車をかけています。皆さんは、検察は行政組織に属していると思いますか? あるいは司法組織として行政から独立していると思いますか? 法曹界の人は全員必ず「検察はきちんと制度上行政とは独立した司法組織になっている」と言い張りますが、ビジネスの常識から見ればこれは明らかにおかしい。

 すなわち、組織的には検察は独任官庁とはいえ法務省管轄の行政の一部であり、検察官は役人そのものです。検察の主要人事は総理大臣や法務大臣といった行政のトップが任命するわけですし、検察の予算も行政の一機能としての国家予算として計上されるわけですから、予算と人事を握られればビジネスではとても独立している組織とは言えません。また、法務省法務局の役人のほぼ半分は人事交流で検察官で占められていますから、検察は法務省とベッタリだと言っても過言ではありません。

 ところが、検察官は「自分たちは行政のコントロールは受けない」と信じ込んでいる。しかし、メンタリティは官僚主義そのもの、組織全体に役人根性が蔓延しているのです。極論すれば、検察官は出世するためには送検された案件の真実なんかどうでもよい、とにかく起訴に持って行って全部有罪にしてしまえば自分の成績が上がり、それが検察という組織の権力増強に直結する、個人個人の上昇志向が組織の存在理由となってしまっているのです。私はこれを「検察官僚主義」と呼んでいますが、他の官僚組織と違って「自分たちは独立している」と信じているためコントロールが効かず、暴走しがちで実に始末が悪いのです。

 ちなみに、このように司法でもない行政でもない鵺(ぬえ)のような組織を作ると、必ず双方のいいとこ取りをして暴走してしまうのが、会社の組織設計における私の経験則です。

 では、そんな検察が巨大権力化したために、裁判所はどうなってしまったのか?

裁判官がオタク化している

 ビジネスで言えば、一つの部署が大きな権力を持つと他の関係部署が縮こまって内向き化、オタク化してしまって、組織全体が正常に機能しなくなる…これが会社で常に観測される現象です。同じことが今の裁判所でも起こっていると思えばいいでしょう。

 例えば、検察から裁判所に起訴案件が上がってくると、裁判所はまず調書等を含む起訴状が正しいかどうかの検討から着手するはずですね。先述のように強制的な自白調書であるかもしれないわけですから。

 ところが、現状はそうではありません。権力の巨大化した検察が実質的に「有罪」と決めて上げてきたわけですから、逆らうわけにはいかない。つまり、裁判所は最初から「調書は正しいものだ」と鵜呑みにするしかなくなります。つまり、“判定”はもう終わっているのです。従って、残る仕事は必然的に“量刑を決定すること”だけになってしまいます。

 その結果、裁判官は検察の権力の前に縮こまってしまって、本来の役割であるべき「有罪か無罪かの判定」ではなく、残されたテリトリーである「量刑の決定」だけを細かくやり始めるしかないわけです。こういう組織は必ず内向き化、オタク化します。例えば、「懲役10年か、12年か」「執行猶予を1年にすべきか、1年半にすべきか」等といった些細な部分を「とにかく正しい判断を出さないといけない」と言って1年も2年もかけて検討する。

 つまり、他にやることがないから、自分の存在意義を示すために長い時間をかけて「重箱の隅をつつく」ことになるのです。また、それを正当化するために、外界との情報を遮断し内にこもろうとする…。「裁判官は世論の影響を受けてはいけないので新聞も読んではいけない」…こんな笑い話が生まれたことからも、内向き化、オタク化という意味がおわかりいただけると思います。

 ちなみに、ビジネスでも仕事がなくなった組織というのは、必ずそういう方向に動きます。一つ事例を挙げましょう。

 私は最初の勤め先の石油会社にエンジニアとして採用されたのですが、石油会社のエンジニアというのは、石油の消費が伸びて工場がどんどん拡張している時には、プラント増設の設計等でものすごく忙しくなります。仕事の規模も、例えば数百億円のプラントを1人のエンジニアがすべて責任を負って設計し、稟議書を書き、それが3~4人の上司のハンコ(決裁)だけで通ってどんどん事業が進んでいくのです。

 しかし、一旦拡張が止まると、途端にエンジニアの仕事はなくなります。すると、エンジニアたちは「このパイプは付け替えた方がいいのではないか」「この部分はステンレスの強度を増やして補強した方が…」等といった小さい仕事を、時間を掛けて延々とやり始めるのです。

 実は私が入社した時、いきなりオイルショックがやってきてプラント増設はストップ、エンジニアの仕事がほとんどなくなりました。すると、それまで数百億円のプラントを担当していたエンジニアたちが、1件5000万円くらいの配管工事等の小さな案件の検討をチマチマやり始めるわけです。

 そして、稟議書を上げると、今度は上司が「これは4800万円にできる」とチェックを入れる。また次の上司が「いや、4750万円でできる」、また次の上司が…と、それこそ10人以上の上司のチェックが入る。つまり、みんな仕事がないため、自分でいちいち計算をして数字を出し、仕事を創り出そうとするのです。従って、決定までに時間がかかること限りなし、今までの5倍くらいかかりましたよ。

 おそらく今、裁判所で行われていることは、そういうことだと思います。だから、日本の裁判は異常に長くかかるのです。また、そんなことを続けていると、裁判官のメンタリティも歪んでくることは想像に難くありません。

 私には弁護士の友人が何人もいるのですが、彼らの話を聞くと、弁護士の間ではクライアントの裁判になると「誰が裁判官になるのか」が一番気になると言います。つまり、上記の内向き、オタクの裁判官に当たると、世間の常識や論理や智恵が通じないので弁護のしようがない、しかも、そういう裁判官が非常に多いから困る、と言うのです。何となく今、日本の裁判がどういう状況かわかりそうな気がしますね。

 もう一つの虐げられた内向きの組織の特徴に、「権力に媚びる動きをする」ことが挙げられます。裁判官の検察庁への出向システム(人事交流)がその典型例でしょう。今、裁判官の検察への出向がきちんと人事ローテーションに組み込まれて、年間何人か必ず検察へ出ています。もちろん、検察としても有罪率を上げるために裁判所とのコンビネーションプレイはウェルカムでしょう。どちらかとはなく、阿吽の呼吸でこの取り決めが行われたことは想像に難くないと思います。これも歪みの一例と言えるでしょう。

 さて、ここまで述べてきた日本の司法制度の問題点をまとめると、
(1)日本の司法の現状は今、検察が巨大化し、役人のメンタリティで警察と裁判所を取り込んでしまった。
(2)そのため、警察、検察、裁判所の仕事の分担がおかしくなり、司法のあるべき姿が歪んでしまっている。
(3)その結果、末端でおかしな現象がどんどん起こり始めている。
、こんなところでしょうか。ということは、ここを直せば、冤罪の問題や検察審査会の矛盾、裁判員制度の問題点等、司法に関する多くの問題はほとんど解決するはずなのです。

 では、どうすればいいのか? ここでは、中でも特に大きな問題の原因となっている「検察と裁判所の関係」について、問題解決の方策を考えてみましょう。

検察と裁判所をあるべき姿に戻す

 検察と裁判所の関係をおかしくしている一番の原因は、「実質的に検察が有罪、無罪を決めている」ことにあります。これが「第1ボタン」です。従って、第1にやるべきことは、検察と裁判所の独立性を回復し、「検察は証拠を集めて起訴をする」「裁判所は検察の起訴を受けて有罪か無罪かを決める」というあるべき姿の役割分担に戻すことです。すると、何が起こるか? ドラスティックに裁判制度が変わりますよ。

 まず、検察はどう変わるのか? 当然、グレーな案件も含め要件を整えて起訴し、有罪、無罪の決定をすべて裁判所に預けることになりますから、点数稼ぎのために安易に不起訴にすることも、また、有罪にするために被疑者に無理な自白強要をしたりすることもなくなることが期待できます。

 ただし、これには我々国民の側にも今までの常識、考え方を変えることが求められます。我々が反省して考え方を改める、これがこの改革の大前提です。それは、「起訴されたからと言っても、裁判で有罪が確定するまではその人は犯人ではない」という、「推定無罪」の原則をきちんと国民が合意することです。

 今は、「推定無罪」とは名ばかりで、起訴されれば「あいつは犯人だ」と決めつけるようなメンタリティが国民の間に蔓延しています。それは、「起訴すれば99.9%以上が有罪」という異常な事実を積み上げてきた検察と、それを検察記者クラブを通じて過剰報道で煽ってきた無節操なマスコミが作り上げた負の遺産というべきでしょう。

 こう考えればわかりやすいと思います。今の日本には、「全く異なる2つの裁判制度が存在している」という奇妙な現実がある。1つは、旧来の「起訴イコール有罪」という裁判、もう1つは検察審査会による強制起訴に代表される「有罪か無罪かわからないので裁判で決着をつけてください」という裁判です。ただ、問題なのは、我々国民のメンタリティがこの両者に区別をつけていないこと、我々はまだすべて「起訴イコール有罪」の感覚を持っていること、にあります。

 その結果、例えば小沢氏は無罪かもしれないのに、検察審査会から強制起訴されただけでほとんど政治生命を絶たれるというひどい仕打ちを受けている。もし無罪になれば、これは明らかに検察審査会とマスコミによる「冤罪」以外の何物でもない。彼は今はあくまで推定無罪なのですよ。

 従って、我々国民がこのメンタリティを直さない限り、「有罪、無罪は裁判所が決める」という検察と裁判所の改革はうまく回っていかないことになります。この負の遺産の払拭には当然、検察とマスコミに乗せられた当事者である我々も悔い改める汗を流さねばならないのです。

 次に、裁判所はどう変わるのか? まず、裁判所は有罪か無罪かの判断をするために調書からきちんと検証することになり、検察の調書をそのまま鵜呑みにするという情けない慣習もなくなる。加えて、裁判官も「有罪か無罪か」という重要な責務を担うことになり、メンタル的にも正常で健康な姿に戻ることが期待できます。

 当然、検察から起訴されて上がってくる案件はかなり増えると思いますが、裁判官を増員する必要などありませんよ。なぜなら、今、裁判所が刑事事件について多くの時間を費やしている「量刑の決定」が大幅にスピードアップされるからです。裁判所が「有罪、無罪の判断」という大きな仕事を取り戻せば、オタクのようにチマチマといつまでも量刑の検討をする、などということはなくなるはずだからです。

 そもそも量刑というものは、私に言わせればほとんど機械的に出てくる類のもののはずです。結局は、莫大な過去の判例というデータベースをもとに回帰分析をかけるようなものですから、どう考えても何年もかかる話ではありません。

 事実、裁判員制度が適用された裁判は、明らかに大幅に判決までのスピードが速くなっているではないですか。裁判員は一般人ですから裁判にそんなに多くの時間を割けない。従って、決められたスケジュールで結審する必要に迫られてスピードが速くなっているわけですが、要するにやろうと思えば速くできるのです。

 ちなみに、アメリカの裁判所は基本的に「有罪か無罪か」を決める場所であり(映画等でもご存じだと思います)、陪審員も「量刑」ではなく「有罪か無罪か」を判断するのが仕事です。そこには「量刑はある程度機械的に決められるものだが、有罪か無罪かは機械的に決めるわけにはいかない。従って、そこに裁判所の存在意義があり、またその判断に民意として陪審員を入れる」という考え方でやっているのです。

 もちろん、それが最適かどうかは別の話ですが、今の日本の「有罪か無罪かはほぼ検察が決めてしまい、機械的に決まるはずの量刑の判断に裁判所が時間を費やす。裁判員制度の裁判員も量刑判断に参加する」というやり方よりもわかりやすく、合理的であり、合目的的であることは言うまでもないでしょう。

~~~~~~~中略~~~~~~~~~~

長くなりましたが、まとめますと、

(1)日本の司法における諸問題の最大の原因は、検察が巨大権力化していることだ。
(2)それを正常に戻すための「第1ボタン」は、検察と裁判所のあるべき役割分担を回復することだ。
(3)併せて、上記改革をスムーズに実施するために「検察の取り調べを可視化する」「検察と裁判所に競争原理を導入する」「検察と裁判所から国会に対して法律改正の諮問ができる組織を作る」等々の施策で、日本の司法は健全化する。

というのが私の意見です。

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